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なぜわが町は「忌部」なのか? 宍道正年氏講演会開催

2023年1月23日

1月22日(日) 日本考古学協会員・元県埋蔵文化財センター所長 宍道正年氏により

【なぜわが町は「忌部」なのか?

          ~『玉の森』が示す中央豪族忌部氏との深いかかわり

の講演会を開催しました。

 講演の要旨は以下のとおりです。

 今から1300年ほど前の奈良時代、ここ忌部地域は今の玉湯町域とあわせた

忌部(いんべ)神戸(かんべ)

という一つの村でした。その村の中に「花仙山」という良質のメノウの原石を産出する山があり、

両地域は、その石を加工する「玉作り工業地帯」でした。

 生産した大量の玉は、はるばる大和国(奈良県)で天皇側近として仕え、儀式を担当していた

中央豪族「忌部氏」のもとへ運ばれて行き、式場の玉飾りとして使用されたのです。

 

 当時「忌部神戸」の中心として栄えていたのは玉湯町域でしたので、当然忌部氏は村全体の神様

(くし)明玉(あかるたまの)(みこと)という「玉の神」を祭る神社を玉湯側に設けました。

 ところが、玉湯では次第に玉よりも温泉が重視され、平安時代には「湯の神」が優先されました。

  

 そういうこともあって、忌部氏は「櫛明玉命」のお墓の場所は、玉湯ではなく、静かで奥まった

神聖な雰囲気の忌部を選んだのです。その墓所こそ、忌部神社下方にある「玉の森」でした。

 江戸時代、1763年の古文書によると、元々約10ⅿ四方級の古墳(忌部の豪族の墓)を「御陵地」

として定めました。それが1717年の大洪水で変形縮小したのが今の姿です。

 忌部氏は、この「玉の森」新設に象徴されるように、忌部地域に一段と愛着を持ちかかわりを

深めました。

 その結果、「忌部」という中央豪族名が地名として生き続けることになったのです。 

 

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忌部神社参道からみた「玉の森」

 

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